河井 継之助(かわい つぐのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日)〜慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。
「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」とも読まれる。
さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったという。
徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。
しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。
物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、士農工商制の崩壊、薩長政権の樹立を早くから予見していた。
藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。
河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。
遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。
また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。
明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。
小林の人物像が語られる時においては河井は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、
手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。
北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。
なお継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。
例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか、「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。
「弾除けにするため町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないしは批判的な逸話もある。
しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる。
慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。
この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。
一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。
そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。
しかし、それに対する反応は何もなかった。
翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。
大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。
藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。
その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。
同時にスネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。
ちなみにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、そのうち2つを継之助が持っていた。
新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥出身の家老首座連綿・稲垣平助、長岡藩で藩主・牧野氏の先祖と兄弟分の契りを結んでいたとされる重臣・槙内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。
こうした中で継之助は、まず自説を曲げずに継之助にことごとく刃向かう反河井派の急先鋒・安田鉚蔵を藩命として永蟄居となした。
そして、恭順派の拠点となっていた長岡藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。
その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて武装中立を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。
5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、成り行きで新政府軍の軍監になった岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。
継之助は長州の山縣狂介か薩摩の黒田了介を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。
継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた。一方新政府軍にとっても、岩村が継之助を捕縛せずにそのまま帰してしまったのが大失敗だった。
これにより長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。
長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。
長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。
家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。
先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。
上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。
継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。
但し先法御三家は家柄により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。
継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。
長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。
しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。
その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日に長岡城を辛くも奪還する。
これは軍事史に残る快挙であり、石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は河井の戦術を研究したものであった。
ところがその奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。
指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。
これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。
一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。
長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。
これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。
継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。
峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。
しかし、この時すでに継之助の傷は手遅れな状態にあった。
継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命など後図を託した。
また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。
後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。
継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し8月12日に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。
塩沢村では不安定な状態が続いた。15日の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。
翌16日の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。
そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、破傷風により死去した。享年42歳。
継之助の葬式は会津城下にて行われた。
遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。
現在は臨済宗 妙心寺派 大寶山 建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑が残されている。
実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。
戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。
しかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。
このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。
一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。
忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新知100石を与えて河井の家族を扶養させた。
明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。
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