直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。

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    生涯-生誕から謙信時代-

    越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。
    通説では、永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説がある。
    父・兼豊の身分についても見解が分かれている。
    米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったといわれている。
    母は上杉家重臣・直江景綱の妹とする説と、信州の豪族・泉重歳の娘とする説がある。

    永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、
    景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われる。
    しかしながら、これらを立証する信憑性のある史料は確認されていない。

    豊臣政権時代

    天正11年(1583年)には山城守を称する。
    天正12年(1584年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。
    秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。
    当時の上杉家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであった。
    天正14年6月22日(1586年8月7日)、主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられる。

    新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北する。
    兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削するなど、現在の新潟平野の基礎を造り、
    着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。
    これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。
    天正15年10月13日(1587年11月13日)、兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、間もなく新発田城も落城し、乱は収束した。

    天正16年8月17日(1588年10月7日)には関白・豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。
    天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた。
    天正18年(1590年)の小田原の役でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。
    文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては景勝と共に参陣して熊川倭城を築城。
    上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。

    安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。
    兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。
    さらには産業を育成し、商業の発展に努めた。
    その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維で、越後に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、
    木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重としたものであった。
    この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げた。
    兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。

    文禄4年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金・銀山支配を任せられると、兼続はその代官となる。
    慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。
    この国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。
    兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。
    朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となった。

    関ヶ原の戦い

    慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するようになる。
    景勝・兼続主従は、前領主・蒲生家の居城若松城に代わり、新しい(神指城)の築城を始めていた。
    戦のためではなく会津の町を新たに作り直す狙いがあったとされるが、親徳川で上杉家を出奔した藤田信吉や堀秀治が上杉家謀反を訴えると、
    以前城の普請を許可したはずの家康は上杉家を詰問する。

    このとき家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった返書直江状の文面は後世の偽作、改竄の可能性が指摘されているものの、
    家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとあることから、
    家康を激怒させた兼続の書状が存在したことは事実のようである。

    奉行衆の諌止もあってか直江状のあとも上洛が計画されたが、讒言の真偽の究明が拒否されたため、景勝は上洛拒否を決断。
    関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。
    兼続は佐和山に蟄居していた石田三成と連絡を取り合うとともに、越後で一揆を画策するなど家康率いる豊臣軍を迎撃する戦略を練っていたが、
    三成挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。
    兼続は東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。

    最上義光と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は悪かった。
    さらに、上杉家から見ると自領は最上領により分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていた。
    当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。
    義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。
    義光の動きを察知した兼続は、機先を制した。
    義光は戦力集中のため一部の支城の放棄を命じたが、畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略した。
    その後、同じく志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻める。
    500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。

    上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。
    長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、
    志村光安、鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出した。
    大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、9月29日に関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は約2週間長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかった。
    尚、兼続は伊達・最上を従えて関東入りする計画であったことが書状から分かっており、最上攻めは力攻めではなく大軍により最上を屈服させるのが目的であり、
    撤退も関ヶ原の敗報を受けたのではなく、上方の情勢を入手して反撃が激しくなった伊達・最上の動きに疑念を持った兼続が独自の判断で決断したとの説もある。

    その頃、美濃国では関ヶ原本戦が行われていた。
    本戦で西軍が敗れたことが奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。
    勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが、水原親憲、前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。この撤退戦の見事さは語り草となり、兼続は敵である義光や家康にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の『日本戦史』でも取り上げられている。

    しかし結果として、上杉軍の最上侵攻は山形の攻略に失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。
    景勝・兼続主従は背後を脅かす最上・伊達を屈服させ、関東へ侵攻する構想を抱いていたが、
    関ヶ原本戦の決着が一日でついてしまったこともあり、実現できないまま降伏へ方針を転換することとなる。

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